僕が中学生の頃とても欲しかった三冊の本があった。その本は三冊でひとつの物語が書かれており、当時お金のない僕にはハードカバーを三冊も買い揃えることは難しかった。
どうにか一冊だけを買い読んでみると、児童文学の様な幼い筆致と、現実世界に繋がるすべてが薄いもやにかかったかのような表現の、人間だけが恐ろしく現実的に描かれた物語があった。
ものの二時間程度で読み終わり、すぐさま二冊目、三冊目を読みたい気持ちに襲われたのだけど、本を買うお金はない。ましてや一冊目でさえ当時の僕には途方もない出費だったわけで、気がつけば僕の中で未読の素晴らしいであろう物語のひとつとなって記憶の片隅へと追いやられていた。
それからほぼ十年。仕事の資料を求め青山ブックセンターに寄ったところ、その三冊の物語が文庫本で、しかも平積みで置いてあった。考えるよりも先に買い、渋谷駅の喫茶店でうろ覚えの一冊目を読み始める。
一行目、たった一行目で、あの頃想像することでしか先を知ることが出来なかった物語の一幕目が僕の記憶の奥底とリンクする。なつかしい双子が笑いもせずにじっと僕を見つめる錯覚に陥る。
それは地名や年代、人名すらも特定しないことで返って浮き彫りになる人間の物語。戦争という大きな土台はあるものの、つまるところいつの時代でもありうる感受性の強い子供の物語だ。
彼らは自らの感受性を呪い、それを呪うことすらを拒んだ。言葉は言葉でしかないと。それを受け取るためのスイッチさえ切ってしまえば言葉はただの記号でしかない。
繰り返される罵倒も、お互いに絶え間なく浴びせあうことで単なる記号とする。
辛さの面で言えば罵倒も愛の言葉ももはや彼らにとっては同じものでしかなく、やはり言葉を投げあうことで誰かを愛する言葉すらも意味を失う。
彼らにとって世界は全てを受け入れてくれる理想郷ではなく、またそこに生きる人々もすべからく生まれながらの悪を孕んでいる。神父の説教に何の意味があるのか。キリストは自らを犠牲とすることを善とする。僕にとっては既にそれがキリストの悪性である。
キリストの価値観を人に押し付け「自らを戒め、許しを乞いなさい」と言う言葉になんの希望があるのだろうか。
僕にとって宗教は痛みをやわらげるための鎮静剤でしかなく、その作用は覚せい剤のように中毒性を持つ。一度神に依存したら、それを否定することは即ち自己否定に繋がるわけで、逆に神をあがめ奉るうちは世界は自己を受け入れているかのような錯覚を持つ。それがそもそも自分の外へ目を向けることを止めさせているたがとは知らずに。
僕は痛烈なほどに神に依存する母親に、常に自己批判をすることを強いられ育てられた。
僕にとってキリストが説く「自己犠牲」は世界を止める楔であり、空を濁らす泥でしかない。
そもそもめまぐるしく動く世界も、輝かしく光る空も自らの心が映す景色であり、自らを認めることでそれらは熱を帯び、動き出す。
話が少しそれてしまったけれど、僕が今読んでいる物語は暗にそういう部分を孕んでいる。と僕は思う。
文字のシュールリアリズム。人間が知性を持つにあたって付け加えてしまった、世界への無用な色づけを一切不必要とした双子の子供の物語。
それは僕にとってまるで塩のようなものである。
中学生のあの頃、まだ心が降ったばかりの雪のようにもろく、誰かの足跡がいつまでも消えない世界。あの世界に塩をまけば真っ黒な泥になってしまっていただろう。
あれからいくつかの歳をとり、踏み固められて固くなってしまった雪をゆっくりと溶かしてくれる清めの塩となる物語であることを、二冊目の途中で強く願った。
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