LSDを学問的に論じる国際シンポジウム(上)

LSDを学問的に論じる国際シンポジウム(下)

意識も巨体になれば動きが鈍くなるものだということがよくわかる話で。
やはり何を基準に善悪の線引きをしているかをまず論じる必要があるわけで、それから良し悪しを決めねばこういった論争に決着が付くことはまずないだろう。


芸術的ではないとしても、優れた装置を開発することや洗練された手法を編み出すことは、ある種のアートであると僕は思う。
極限まで比率を意識して作られた立体の、理由なく惹きつける不思議な魅力や、例えばフォントの(Winユーザですから)Arialに見られる直感で美しいと思える調和などは、決して芸術的ではないと僕は思う。しかし、それらの「完成された存在感」は、ダイナミックにその”在り方”に説得力を持たせることが出来る。
すると、やがてその存在感自身が実体を持ち、自らを「存在しているもの」だと主張するのだ。
まるで自然界の持つ神秘的なパワーに反して極端にまでミニマルな表現をすることで意図的に価値観を逆転させるかのような、それでいてプラスの反対がマイナスではない世界を作り上げるのだ。

そうすると視覚に映る音が聞こえ、聴覚を刺激する色が見える。説明するための言葉も、その本質が変異しているため”評価”の媒体としては不適当である。
だがあえて言うなれば、変化ではなくシフトチェンジである。思考する感覚の先端が加速するほどにちょうど”人中”と地面に水平な高さの、頭の中心辺りが火花のような熱を持つ。

その感覚が「閃き」なのではないかと思う。
恐らく脳内の知識を結ぶ理論というネットワーク上に故意に不具合を起こす事で、まるで人体実験の失敗で生まれた怪物の様な「オカルティックな発見」を促すことが出来る唯一の人工物質なのではないだろうか。

さて、ここまで話してあなたの思う善悪と僕の思う善悪とはそもそも同じステージなのだろうか?
もし同じならばこういった討論は素晴らしい成果を生むだろう。

だが、もしステージそのものが違うのだとしたら、極めて純粋に無駄な時間を過ごすことになるだろう。そもそも大概の人がこういう思考回路を好まないのだから、こういった問いかけそのものが無駄なのではないだろうか。
というかむしろ僕がこういった話をすることそのものg

寝ます。

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